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牧師だより ─ No. 299

 1/17(金)に「ノー!ハプサ訴訟(第二次)」の最高裁判決が出されたことは、先週もここに記したが、判決文が入手できたので、ざっと目を通してみた。

 報じられていたとおり、棄却の理由は除斥期間ではあるのだが、その判断にしろ、諸々の判断が基づいているのは、結局のところは「そのくらいは我慢しろ」ということであった。判決文はこう記している。

「国が私人の合理的期待に反することをしたことにより被ることが想定される精神的損害の程度は、当該私人の宗教的思いの深さに応じて異なるであろうが、それでも賠償責任を認め得る損害という観点からは個人の生命や身体に対する重大な侵害に比較すると相当程度軽度なものであるといわざるを得ない。」(下線はわたし)

 これが今日、この国における人権保障の最高機関の言葉であるのだから嘆かわしいでは済まない。

 思い起こされたのは、1988年の自衛官合祀拒否訴訟最高裁判決が原告に言った「寛容論」である。

「信教の自由の保障は、何人も自己の信仰と相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為に対して、それが強制や不利益の付与を伴うことにより自己の信教の自由を妨害するものでない限り寛容であることを要請しているものというべきである。」(下線はわたし)

 ここでも人権侵害として認められるとされているのは、物理的な強制行為である。

 こうして原告に逆転敗訴を言い放った最高裁長官は、翌1989年、天皇代替わり諸儀式に参列し、高御座に立つ天皇を見上げて万歳三唱をした。詰まるところ、正義の味方面をしていた人が実は加害者とグルだったという、よくあるドラマの落ちである。

 二つの判決に通底しているのは、心のことよりも体のことが重要だという思想である。それはまさしく天皇教の中心教義である。すなわち力への信奉である//


「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」ローマ1:17

 
 
 

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