牧師だより ─ 其の百二 ─
- info187469
- 2023年7月15日
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7/12㊌ 安倍元首相「国葬」「県民葬」違憲訴訟第1回口頭弁論が山口地裁で開催された。裁判は、国葬と県民葬とで分割されていて、14時からが国葬、14時半からが県民葬であった。分割されたのは、訴えの内容が表面的には違うからだが、根本的には同一である。つまり行政が、特定個人の葬儀を法律もなしに公金を費やして行うことを通じて、全国民県民市民を強制的に参加させたことが根本の問題である。誰の死を悼むかは、個人の内心の自由に係ることなのである。従って、かつての「国葬令」は、思想・良心・信教の自由を保障する日本国憲法施行時に廃止された訳である。つまり、「国葬」「県民葬」は憲法軽視に他ならない。しかし、裁判所がこの裁判を分割していると言うことは、そうした根本理解にまでは到達していないことの現れでもある。従って、当面の課題はその根本に裁判所を導くこととなる。
ところが、100名余の原告も辿り着いていないというのが現状である。つまり、“安倍元首相の生前の所業がひどいので、あの人の葬儀に多額の税金を費やすのは我慢ならん”、と言うところで原告になっている人が多いのが実情である。しかしこの理屈では、「立派」な行いをした人ならば「国葬」「県民葬」をしてもよいと言うことになるのであり、結果、内心の自由への侵害はどうでもよいことになる。そしてここでもやはり、真の課題は、裁判所にではなく、原告、つまりはそれを含む社会全体にあると言わねばならないのである。
この度の口頭弁論は、各裁判それぞれに原告1名が意見陳述を行ったが、その陳述にもその事は色濃く表れた。事前に意見を求められたため、一応指摘はしたが、時間の限りもあって、結局殆ど変わらずに陳述は為された。
そして、裁判が終わっての報告集会で、報道機関がその意見陳述をした原告に生年月日を尋ねた際(報道機関は報道時の当人の年齢を算出するために生年月日を聞くのが慣例)、原告はそれに元号、すなわち天皇暦で応えていた。そこでわたしがこっそりと柔らかく指摘すると、彼はこう応えた。“そこまでの拘りはありませんから”と。すなわち彼は、少なくとも実際強制されてきた元号の使用には内心の自由の侵害を感じてはいないと言うことであり、恐らくそれはやはり「国葬」「県民葬」に関しても、この問題には到達していないということの現れなのである。そして更に言えば、そうした自らの有り様が「国葬」「県民葬」を実現してしまっていることには到底気付いていないのである。
妻はキリスト教徒だそうだ。教会の責任を思わずにはいられない//
「イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。」」 マタイ16:6
政治に関しましては全く関心がありませんでしたが、税金の無駄遣いをするくらいなら、保育士の賃上げにまわしていただきたいと要望いたします!
国家資格である保育士が時給1000円前後ということを皆様はどう思われますか?