9月6日㊌ 会員の葬儀告別式、火葬、拾骨を終えて、新幹線で広島へ。毎年恒例の教区新任教師オリエンテーションである。
新任と言っても、西中国教区における新任であり、教師としての経験は別である。 その内容は、概して二つ。一つは、西中国教区の仕組みについて。当教区のみならず、各教区において新任教師オリエンテーションが実施されている目的と意義の多くはここにある。つまりそれだけ、教区ごとの仕組みには違いがあるわけである。
これは、遡ると、1968年の教団機構改正に遡る。つまりその時の機構改正の目的の一つは、各教区への権力の移譲であった。従って、各教区に特色が出てくるのは当然の帰結である。それは教団全体で考えるよりも、地域的視座を以て、より細やかにその地に仕えることを、そしてそのことを基軸とし、各教会の連携を可能とするためである。これは「教団は教区に仕え、教区は教会に仕える」と言われてきた。これは更に遡れば、トマス・アクィナスが「補完の原理」と呼んだ、教会という組織体の在り方にも通じる。
つまりそこには、各教区の仕組み以前の、教団という合同教会を形成する、方針であり、思想であり、神学があるのであって、オリエンテーションの内容の二つ目は、このことについてであり、慣例として概ね教区総会議長の担当がこれである。
伝えるべきことは、改めて上記の方針が現在も教団の方針であり、当教区もこれと軌を一にしているのみならず、更にそのことの意義はより増していると考えていること。しかし残念ながら、その方針に反対する人々も少なからずいるのであり、それ故に、教団も様々な問題の渦中にあることである。
この度は目に留まった教区宣教基本方策の一部から語った。「青年や子どものことが語られると、しばしば、どうしたらそれらを集められるかという話になる。しかし、宣教基本方策には『青年及び子どもたちが直面している問題を共に担うことができる教会となることを目指していく』とあるように、その地に仕え生きようとする教会に教区は仕え、その教区に教団が仕えるような教団形成を願っている」と。違いは、自分のための対象としているか、人格を持った個人の隣人になろうとしているかである。
語らなかったが、その二日前の、上記方針とは全く逆行した判決が思い出された。辺野古埋立を巡って沖縄県知事が訴えた裁判での最高裁判決である。琉球新報の見出しは「2000年施行の地方分権一括法による地方分権改革の意義は失われてしまったのか」である。
この世にある、教会の在り方の意義がここにもあるということである。
と同時に、召天会員のことを思った。対象化しないで、その生に関わるならば、何も失われてなどいないのだと//
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